セッション

少し前に録画したのだけど
「ジャズ」の映画というのが何か敷居が高くて
保留していたのを、涼しくなってきたので観た。
で、出てきたスキンヘッドのおじさんに見覚えがあると思ったら
いつも観ている「クローザー」のポープ本部長!

「セッション」(2014)

監督 デイミアン・チャゼル
出演 マイルズ・テラー J・Kシモンズ

ニーマン(マイルズ・テラー)は、一流のジャズドラマーを夢見て
名門のシェイファー音楽院に通っていた。ある時、フレッチャー
(J・Kシモンズ)というカリスマ教授の目に止まり、彼のバンドに
スカウトされたが…

フレッチャー教授の指導のもと、ニーマンたちが練習しているのは
ビッグバンドと言われる、楽団で演奏するスタイル。フレッチャーは
テンポやスピードに異常なほどこだわり、メンバーは楽譜を完璧に
暗譜し、音程もテンポもわずかな狂いも許されない。

なんだか、ジャズの話というより、漫画の「のだめカンタービレ」の
変なマエストロが出てくるクラシックの世界に似ている。
下品な差別用語の嵐や体罰、暴言、とても教育者と言えないような
ほぼ性格破綻者で偏執狂のフレッチャーだが、ニーマンは
どれだけ虐められても、フレッチャーに食らいついていく。

けれど意外に、この二人似た者同志なのかと感じたのは
ニーマンが、自分から好きだと告白した女性に「ドラムを
叩く時間がなくなるから」と、これまた一方的に別れを切り出した時。
屈折した劣等感の反動としての、異常なくらいの上昇志向や
相手の気持ちを全然考えない自己中心的な言動が
微妙にフレッチャー教授とかぶるのだ。

しかしニーマンは、所詮怪物フレッチャーの敵ではない。
彼の夢は叩き潰され、とうとうニーマンはドラムを諦める。
ところがフレッチャーは、そんなニーマンにさらに追い打ちをかける。
なにしろ、過去の生徒の中には、うつ病で自殺した人がいるほど
フレッチャーの攻撃は、徹底的に陰湿で容赦がない。

そんな二人の関係性が、画期的に変化する最後の演奏シーン。
ニーマンは、フレッチャーの指示を完全に無視して
自分で選んだ曲を、自分の思い通りに演奏する。
これは「和解」でも「勝利」でもなく「訣別」なのだと思う。

長い間、フレッチャーという存在に、良くも悪くも支配されてきた
ニーマンが、その呪縛から自分を解放し
自分のドラム、自分の音楽をつかみ取った瞬間でもあった。

何が正解なのかは分からない。指導者に従順に従うことが、上達し
一流になるための道なのかもしれない。指導する側は、それが
正しいと確信しているのかもしれない。
教師と生徒、指導者と弟子、あるいは、夫と妻や親と子などで
フレッチャーとニーマンのような関係は、あんがいありそうだ。

そこから自由になるためには、もの凄いエネルギーが必要で
ニーマンみたいに満身創痍になるかもしれないが、それでも不可能
ではないと感じられたことで、私には「ああ、いい映画だなぁ」
と思えた一本でした。
でもシンプルな映画なのに、切り口が多いので
感想を書くのは、すごく難しかったです。
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チャーリングクロス街84番地

いつも感想を書いている映画とは対極にある
これといった大きな事件がまったく起こらない映画。
のみならず、主役の二人が一度も顔を合わせない
という、別の意味で、かなりすごい映画でもある。

「チャーリングクロス街84番地」(1986)

原作 ヘレン・ハンフ
監督 デヴィッド・ジョーンズ
出演 アン・バンクロフト アンソニー・ホプキンス

NY在住の、貧しい小説家ヘレン(アン・バンクロフト)
は、英文学の稀少本の収集が趣味だが、アメリカでは
その手の本は高額。そこで、新聞広告で見かけた
ロンドンの古書店マークス社に、注文の手紙をだす。
すると店主のフランク(アンソニー・ホプキンス)から
ていねいな手紙と一緒に本が送られてきた。

それからの20年にわたる往復書簡が原作で、副題は
「書物を愛する人のための本」らしい。
人間関係も含めて、現在では絶滅しているか、絶滅
寸前のアイテムが、そこここに散りばめられている。

文通、価値のある古書、古書に対する愛着
人と人の信頼関係(商取引だけでないプレゼントの
やり取りや、代金の後払い)良質のユーモア。
私のように、未だスマホを持たない、時代とずれてる
人間には、なくなってほしくないものばかりだ。

大戦後、ロンドンの食糧難を知ったヘレンは、度々
マークス社に食料を送り、フランクだけでなく
店の従業員みんなと、家族のような付き合いを
続けた。ヘレンが、エリザベス女王の戴冠式の時に
渡英するというので心待ちにしたが、実現しなかった。
ヘレンが来ないことを知った時のフランクの落胆。

それじゃあ、これは恋愛映画なのかというと
それはちょっと違うような気がする。

ヘレンが言う。
「私のことを本当に理解してくれるのはあなただけ」
つまり、彼女の、書物に対するこだわりや愛着、愛情を
理解してくれたのは、フランクだけだった。フランクもまた
ヘレンのユーモアのセンスや文才を愛し、ヘレンとの
交流を楽しみにしている。けれど彼には愛する妻も
二人の可愛い娘もいて、ヘレンに対する気持ちは
いわゆる男女の愛情というのではなく、かといって
友情というのとも微妙に違うように感じるが
そのあたりの真実は、ものすごくデリケートに
フランクを演じたアンソニー・ホプキンスに聞かない
限り分からないと思う。

「羊たちの沈黙」のレクター博士で、すっかり怪優のイメージ
になったアンソニー・ホプキンスですが、私のマイベストは
この「チャーリングクロス街84番地」と、これまた地味地味な
「日の名残り」なのは、自分でも不思議です。

赤い羊は肉を喰う

著者の五條瑛さんは、防衛庁で情報・調査関連の仕事を
されていたという異色の経歴の作家さん。

東京の、下町の空気と人情が残る八丁堀。
内田偲は、社長の内田(同姓だが他人)を入れて
わずか3人という小さなリサーチ会社の計数屋。

偲は、ひったくりにあった老人を助けた笙という浪人生と
笙の幼なじみの理香子と知り合うが、理香子が、何者かに
殺されてしまう。

過激なプロモーションを展開する「kohaku!!」というアパレルの
ブランドと、それを率いる渡辺エスターという男。

渡辺は、かつてナチズムにも通ずる、大衆心理の操作という
テーマを追求したワタナベ・グループなる天才集団の一人。
彼は、人間の悪意を操作することで、大衆を煽動できる
ことを実証しようとし、その計画に気づいた偲たちは
それを阻止しようとする。

ささやかな日常を大切にし、隣人たちと助け合い、真っ当に
生きようとする人たち、偲や笙や、桐細工の店の女将や
若旦那などのキャラクターがすごく丁寧に描かれている。
彼らが、大衆をコントロールしようとする渡辺たちと対峙する
ことで、その危うさや異常さがより際立ってくる。

結果的に偲たちは、渡辺の企みを阻止することはできなかった。
日比谷バベルという大型ショッピングセンターのオープニング・
セレモニーで起きた、些細なアクシデントをきっかけに
詰めかけた聴衆が店に乱入して、商品を略奪し始め
飾られていたガラス器やスツールが倒壊して
降り注ぐガラスの雨が、人々の血で染まる。
水晶の夜の再現ともいえるこの光景は、凄惨だが美しい。

この小説は、殺人事件の犯人云々が主眼ではなく
とても丁寧に張り巡らされた伏線と
天才集団VS無名の市井の人々という魅力的なキャラクターたちが
混然一体となって、ドラマチックなラストを迎えるという
ミステリーとしては異色だが面白い話だった。

実は、高村薫さんも、五條瑛さんも、ある意味BLちゃあBLで
その方面の熱烈なファンの方もいます。私は、特にBL要素に
注目して読んでるわけではないのですが、高村さんにしろ、
五條さんにしろ、ものすごく壮大な仕掛けで、そういう人間模様
を描くことができるのが、何気にすごいなと思います。

この本は、私のお気に入りの一冊なので、HNはここから
お借りしました。

凶悪

2013年の日本アカデミー大賞にノミネートされたけど
確か最優秀賞は取れなくて
「まあ、それはそうだろうな」と思ったのを覚えている。

誰が観ても、楽しいとか、感動したと感じるのとは
対極にある映画。観る人を選ぶなんて言われる系かな。

「凶悪」(2013)
    監督 白石和彌 
    出演 山田孝之 リリー・フランキー ピエール瀧

ちょうど「そして父になる」も封切られていた時期で
「凶悪」を先に観ると、リリー・フランキーさんが、絶対いい人
に見えなくなるから「そして父になる」を先に観たほうがいい
というアドバイスを見かけて、それに従ったのは正解(笑)

原作は「凶悪 ある死刑囚の告発」というドキュメンタリー。
雑誌記者藤井(山田孝之)のもとに、死刑囚須藤(ピエール瀧)
から手紙が届く。彼は、自分にはまだ余罪があること、そして
そのいくつかの殺人の黒幕が、「先生」と呼ばれている、
不動産ブローカー木村(リリー・フランキー)だと告白する。
須藤の話を聞いて、藤井は事件の取材を始めるのだが

須藤は、暴力団の組長だから、人を殺すこと、人の命を何とも
思っていない。一方非力な木村が、須藤を支配できるのは
一にも二にも金の力。木村は、金のためなら、どんな残虐な
ことでもできる人間だ。けれど、奇妙なことに、彼ら、特に木村
には驚くほど罪悪感がない。まるで、レジャーのように、嬉々と
して、人を殺したり、ばらばらにしたりする。

それでいながら、木村には家庭があり、娘もいて、須藤も
犯罪を重ねる一方で、思わぬ人間性を見せたりもする。
彼らは、果たして生来の犯罪者であり異常者なのか。

それとも、と思わせるのが、電機屋の老人を殺すエピソード。
牛場電機の一家は、お金に困っている。木村は、酒好きの
父親に掛けられている保険金に目をつけ、老人をだまして
大量の強い酒を飲ませて殺すのだが老人の、妻も、息子夫婦も
この計画を知っていて黙認している。果たして、凶悪なのは
直接に手を下す人間だけなのか、これが人間の本性なのか。

そして記者の藤井もまた、家庭では、認知症の母親や、その介護に
疲れ果てた妻との軋轢を抱えながら、仕事を口実に、現実から
目をそらし、ただ沈黙しているのだ。

この映画は、善人の視点から、凶悪な人間を描いたものではない。
だから「こんな悪いことしたらいけませんよ」みたいな空気や
なぜ、彼らはそうなのかみたいな分析的な視点もない。
それでも、映画に漂う底なしの陰惨さは、悪は、ある意味
人間に普遍的なものという暗示が込められているからで
それが、救いようのない、嫌な後味にもつながっていると思う。

「凶悪」は、同じく実話ベースの「冷たい熱帯魚」と比較されることが
ありますが、「冷たい~」は中盤までは緊張感がありますが、終盤に
かけて、どんどんユルい感じになっていくので、最後の最後まで
ほとんどウェットな展開にならなかった「凶悪」のほうが好きです。

余談ですが、最近映画版「64」前編、後編を観て、やっぱり映画は
終わらせ方が一番難しい。近年の邦画は、最後がグダグダで
「何じゃ、こりゃ」な感じになるのが増えた気がします。



ブラック・スキャンダル

ジョニー・デップの薄毛ヘアーが
ずっと気になっていたのでWOWOWで鑑賞。

ブラック・スキャンダル(2015)
 監督 スコット・クーパー
 出演 ジョニー・デップ ジョエル・エドガートン
     ベネディクト・カンバーバッチ

ボストンの犯罪組織のボス ジェームズ(ジミー)
・バルジャー(ジョニー・デップ)は、幼なじみで
今はFBI捜査官のコナリー(ジョエル・エドガートン)に
誘われてFBIの情報屋になる。
ジミーとコナリーは持ちつ持たれつの関係で
敵対するイタリアン・マフィアを潰すのに成功。
ジミーはその後も、障害になる人間を次々に抹殺し
アイリッシュ・マフィアのウィンター・ヒル・ギャング
のボスにのぼり詰める。

これはFBI史上最悪の、汚職事件の実話なのだが
その事件のてんまつよりも、稀代の犯罪者ジミー・
バルジャー像を描くことに重点が置かれている。

ジミーは犯罪者ではあるが、殺人狂の異常者では
ない。死別したこどもへの思い、コナリーとの
幼い頃からの友情、そして上院議員の兄ビリー
(ベネディクト・カンバーバッチ)や母親に対する愛情
祖国アイルランドへの思い入れ。

そういう人間的な側面を織り交ぜながらも、のし上がって
いくにつれて、ジミーはどんどん冷酷で非情になっていく。
大きな声で恫喝したりとかほとんどせず、静かなのに
凄味が増していくというか、翳が濃くなって「この人と
目を合わせたら殺されそう」みたいになっていくジョニー・
デップはマジで恐い。

けれどジミーが大物になるにつれて、彼の孤独は増していく。
手あたり次第の粛清で、部下を恐怖で支配しようとしたことで
身内や古くからの部下も、ジミーから気持ちが離れていった。

どこまでが実話で、どこが映画としてフィクションなのかは
分からないし、実在の人物なのでその縛りもあって
あまり劇的な結末がつけられなかった、やや窮屈な感じはあるが
稀代の事件を起こした男を、一人の人間として描きたい意図は
感じられて、私はどこか「ゴッドファーザー」にも通じるものが
あるように思いました。

それにしても、警察と反社会勢力と政治家が三位一体なのは
万国共通なんでしょうね。だめだ、こりゃ。



読書で離婚を考えた。

SF作家の円城塔さんとホラー作家の田辺青蛙さん。
それぞれ違うジャンルで執筆されているご夫婦が
相手に読んでほしい本を勧めあい、その本のレビューを書く
という、ネットで連載されていた企画の書籍化。

円城さんは北海道出身で
大学で物理学を専攻された理系の人。
一方田辺さんは、文系一筋というよりも
産業翻訳などのお仕事と執筆業を両立されている
キャリアウーマン系行動派の大阪人(?)

自分で本を選ぶと、自分の好みのジャンルのものばかり
選んでしまうので「何か面白い本ないかなあ」
というのもあって、この本を読んでみた。

さすがに、お二人ともかなりの読書家なので
結構マニアックな選択ではあるが
相手の苦手分野の本を選んでいるという自覚からか
マニアック過ぎるということはなかった。

幸田文とか又吉栄喜とか、池波正太郎とか
吉屋信子など「へぇ~」というのも混じっていた。
それでも私が読んだことがあるのは
「バトル・ロアイアル」だけだったけど。

この企画にはもう一つの目的があって
読書を通じて、夫婦の相互理解を進めようというもの。
相方が、本当はどんな人間なのか、何を考えているのか
分かっているようで、ほとんど分からないというのは
世の多くの夫婦も似たようなものなのではないか。

で、この試みをやったことで
円城さんご夫婦の相互理解が画期的に進んだかというと
結果は、本のタイトルが示す通り(笑)
お互いに、相手がますます分からなくなったというか
分かるような分からないような、というのは
この本を読んだ私の感想でもあります。

けれど、お互いに本を勧めあうことができる
その本について、まともな感想が返ってくる
このことだけ見ても、
大枠で言えば、世の大多数の夫婦よりは
ずっと近い距離にいて、実は読者は
ご夫婦のおのろけにつきあわされた感がないでもありません。

そして、紹介された40冊あまりの本の中で
これ読んでみたいと思ったのは「20世紀の幽霊たち」
なんと、作者のジョー・ヒルは
あのスティーブン・キングの息子さんらしい。
結局、自分の読書の幅を広げるという結果には
ならなかった気がします。


ツイン・ピークス 再び

「25年後に会いましょう」
「ツイン・ピークス」の最終話で、ローラはクーパーにささやいた。

まさか律儀に25年たって続編が作られるとは思わなかった。
6月の後半、PCを開くたびに、これでもかと出てくる
WOWOWの「ツイン・ピークスThe Return」の広告。
「負けないぞぉ~」と思ったが、結局負けてWOWOWに加入。
取りあえず先行放送で第4話まで観た。

そもそも「ツイン・ピークス」の第1話が放送された時に
性格が素直な人は、このドラマはミステリーだと思ったに
違いない。それが2話、3話と話が進んでいくうちに、
次第に雲行きが怪しくなってくる。

私は、映画の「ブルー・ベルベット」が大好きで、そこから
「ツイン・ピークス」に行った派なので、出てくる人、出てくる人
みんなどこか変という「ツイン・ピークス」の異様な空気に
どっぷりハマった。

何とも言えず、嫌~な、気持ちの悪い、それでいて
妙におかしくもある「ツイン・ピークス」の世界は
やったことないけど、多分ドラッグみたいなもので癖になる。

新シリーズでも、その異様な世界観は健在だ。
ネタばれはしないが、25年前よりCGの技術が発達した分
SFっぽい演出が多くなったように思う。話の舞台も
ツイン・ピークスだけでなく、ニューヨークやラスベガス
など都市に広がった。その分さらに難解な、ほぼ理解不能な
話になっていきそうな不吉な予感もあるが。

私は、観た人が、どんな風にでも解釈できる
自由度の高い映画やドラマが好きなので
「ツイン・ピークス」に関しては
ドラマの全体像を理解しようと苦労するより
ジグゾーパズルのパーツを吟味するように
ひとつひとつのパーツを楽しみたいと思う。
ぴったりきれいにはまるかは保証できないけど。

ただ普段みているのが
分かりやすくてお花畑のような国産のドラマ
という人が、もし「ツイン・ピークス」を観たら
どんな感想を持たれるのか、ちょっと知りたい気がします。


残穢ー住んではいけない部屋

少し前に「劇場霊」を観て「これはコメディなのか?」と
腑に落ちない思いをしたので
当分邦画のホラーはやめておこうと決心したのに
性懲りもなく「残穢」を観たのは
原作が、一番好きなホラー作家の小野不由美さんだから。

「残穢ー住んではいけない部屋」(2016)
 監督 中村義洋
 出演 竹内結子 橋本愛 佐々木蔵之介

ミステリー作家の私(竹内結子)は、読者の投稿をもとに
実話怪談を書いている。そんな私のもとに、女子大生の
久保さん(橋本愛)から、住んでいる部屋で、畳を擦るような
奇妙な音がするという手紙が届く。その部屋は事故物件
ではないのだが、彼女の前に住んでいた住人は、転居後
自殺していた。私と久保さんは、怪異の原因が、部屋では
なく、マンションの建っている土地にあるのではと考え
調べていくうちに…

意外にもこれは、私がわりと好きなタイプのホラー映画
だった。一口にホラーというけれど、実は何を怖いと思うかは
まさに十人十色。首がちぎれたり、内臓が出たりといった
ゴア描写が多い映画は、私にとっては、怖い映画ではなく
気持ちが悪い映画。悪魔とか殺人鬼に追っかけまわされる
お化け屋敷タイプは「まあ、これは現実にはないわな」という
心理的な距離感があるので、恐怖とはちょっと違う。
それじゃあ、何が怖いかというと「これ、あるかも」と感じる
ような映画が、まさにツボだ。ホラー映画の評価が「怖い」
「怖くない」と極端に分かれるのは、映画の優劣というより
単純にこの相性の良しあし、好みの問題なのだろう。

「残穢」は怪現象を、二人の女性が論理的に解明しようと
する点で「リング」と同じタイプ。けれど、その過程で、次々に
出てくるエピソードの一つ一つが、映像化されると相当怖い。
娘が結婚した夜に首を吊った女性、ゴミ屋敷に暮らす老人
赤ん坊を何人も殺した母親、精神を病んだ男。過去に起きた
様々な不幸をさかのぼり、そのルーツをたどると、それは
遠く離れた福岡の炭鉱で、100年以上前に起きた炭鉱の火災
にあったというのは、かなりすごいことだ。

ランダムに伝播する呪い、祟り。どこで穢れに触れたのかも
分からず、逃れるすべもないとなれば、いや、これは怖いわ。
私は原作未読なのですが、読んだ人によれば
「本のほうが怖い」とのこと。ホラーというのは、映画のように
ビジュアル化したほうがより怖いと思っていたので、これはもう
近いうちに読むしかありません。

メゾン・ド・ヒミコ

「メゾン・ド・ヒミコ」(2005)

監督 犬童一心
出演 オダギリジョー 柴咲コウ 田中泯

ちょこちょこ同性愛的な題材の映画をチョイスするけど
自分では特にBLが好きという意識はない。
ただマイノリティなものに感情移入しやすいんだろうな
とは思う。この映画もそんな一本。

かつてゲイバーのママをしていた卑弥呼(田中泯)は
ゲイのための老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」を造り
老いたゲイたちと共同生活をしていた。
卑弥呼の恋人の春彦(オダギリジョー)は
末期癌で余命僅かな卑弥呼のために
昔卑弥呼が捨てた娘沙織(柴咲コウ)に
「メゾン・ド・ヒミコ」でのアルバイトを持ちかける。

自分と母親を捨てた父を憎み、ゲイを激しく嫌悪して
いた沙織が、いろんなゲイたちと関わるうちに
次第に心を開いていく。そんな物語だが、老ゲイたちの
言動はとてもコミカルで、じめじめしたところがない。

自分たちが、世間的には認められない存在だと
分かっているけど、卑屈さはない。自分が望んだ
生き方を貫いて老いたことへの後悔もない。
その人間としての矜持を、存在自体で表現したのが
田中泯さん。田中泯がゲイの役をやるって、なんか
すごいことだなと思ったんだけど。もう二度とない
かもしれない。

沙織は、ゲイたちに抱いていた偏見を捨て、人として
彼らに愛情を感じることができるようにはなったけど
最後まで父親を許すことはできなかった。
この、無駄にお涙頂戴にならない展開が素敵。
そして、柴咲コウはまさに適役という感じだった。

もう一人、卑弥呼の恋人春彦を演じたオダギリジョー。
最近は個性の強い役が多い感じだが、この時は
卑弥呼に対する想い、沙織に魅かれる心の揺らぎ
といった、すごく秘めやかでデリケートな感情を
とても静かに演じ切っていて、彼の映画の中では
マイベストかも。

ともあれ、素材のユニークさと、俳優さんたちの
まさに適材適所という好演で、地味ながらも
かなりポイントの高い映画ではありました。
こういう、オリジナルの脚本で、少ない登場人物で
じっくり人間ドラマを見せてくれる。洋画にせよ
邦画にせよ、それもまた映画の捨てがたい魅力
だと思うのですが、そういう映画が少なくなった上に
地方では上映してくれる映画館がないという、とても
悲しい時代になってきてる気がします。

ソーシャル・ネットワーク

この監督さんだからとか、この俳優さんだからというので
映画を選ぶことは少ないのだけど
実は、デヴィッド・フィンチャー監督の映画は
ほとんど観ていたことに気づいた。

やはり最初に観た「セブン」の印象が
あまりにも鮮烈だったことが大きい。
めったに読まないノベライズまで読んだくらいだから。

そのフィンチャー監督の8作目
「ソーシャル・ネットワーク」(2010年)

ハーバード大の学生マーク(ジェシー・アイゼンバーグ)
は、恋人のエリカに振られた腹いせに、ネットに彼女
の悪口を書き込んだうえに、大学のコンピューターを
ハッキングして、女の子の格付けサイトを立ち上げた。
サイトは大人気になるが、マークは大学中の女子学生
から総スカン。さらに、大学から処分を受ける羽目になるが
彼の優れたプログラミングの才能に目をつけた友人に誘
われ、後のFace bookの原型になる、コミュニティサイトを
立ち上げる。

世界最大のSNS Face bookの創設者マーク・ザッカー
バーグの実話なのかと思いきや、当のザッカーバーグの
「キャストの衣装だけは、自分の着ていたものと同じ」
というコメントでも明らかなように、マークの性格や人間像
は、どうやら完全なフィクションらしい。

天才的な才能の持ち主ではあるが、いわゆるオタクで
根暗で、成功はしたもの、親友にも見放されるような
友達になりたくないタイプではあるのだけど。
この映画の最大の魅力は、ラストシーンにあった。

Face bookの大成功で、アメリカンドリームの具現者と
なったマークが、エリカに友達申請をするが、承認されず
マークは何度も更新を繰り返す。
世界中の人々が、ネットワークでつながることを可能にした
男が、いちばんつながりたかった、たった一人の女性に
拒絶されるラスト、切なかったです。

これが実話かどうかということには大きな意味はなくて
テクノロジーにできないことは何なのか
ネットワークと人間との本質的な差異を描くのに
マーク・ザッカーバーグというキャラクターが、まさに
ぴったりだった、そういうことなのだろうと思います。

そして、ザッカーバーグは、この映画に対して
決して好意的な反応を示したわけではありませんが
極めて異色な脚色を施された自分の物語に
強く抗議をしたり、批判したりしなかったというところに
アメリカの文化が、今でも自由な創造性を失っていない
と思えて、とても羨ましくもありました。



プロフィール

田中偲

Author:田中偲
50年以上映画を見続けてきた、でもただのミーハーな映画好きの、備忘録的感想文

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