検察側の罪人

映画化されるというニュースを見て、読んでみた。

「検察側の罪人」 雫井脩介

雫井さんの小説は、これまでにも「犯人に告ぐ」
「火の粉」「虚貌」など、ほとんどハズレがないので
相性がいい作家さんなんだと思う。

大田区で、都筑という老夫婦が殺されるという事件が
起きた。本部係検事の最上は、若手検事の沖野に
その事件を担当させる。被害者の都筑は競馬好きで
競馬仲間に、資金を用立ててやったりしていた。その
中の一人松倉は、17年前の女子中学生殺害事件の
容疑者だったが否認を通し、事件は時効になった。

どんな手段を使っても、松倉に罪を償わせようとする
最上と、あくまで法律にのっとって裁かれるべきと
考える沖野。かつては、最上を尊敬し、その期待に
答えたいと思っていた沖田だが、最後は告発者となる。

本を読み終えても、誰が一番悪かったのか、簡単に
答えを出せる話ではない。極端な言い方をすれば
松倉のような正真正銘のクズのせいで、最上や
沖野が、自分たちの人生を壊してしまうことの
不合理。けれど、そういう手段に訴えるしか
罪を償わせる手段がないという理不尽。更に
そうした全ての苦悩と葛藤が報われない結末。

殺人の時効は撤廃されたが、何の罪もない人間の命
が奪われて、犯人はその罪に見合うだけの罰を
受けていないと感じるような事件が増えている。
作者は、ミステリー性云々よりも、その理不尽さに
対する激しい憤りという自らの情念を描きたかった
のではないかと思う。

映画化にあたって、一番難しいと思われるのは
検事から殺人者へという、およそ常識とはかけ離れた
気持ちの変化を遂げる最上という検事の造形だと思う。
どこまで、観る人を共感させることができるだろうか。

雫井さんの小説は、基本的にハッピーエンドには
なりません。でもハッピーエンド嫌いの私には
このモヤモヤ感がいいんだと思います。

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新リア王

選挙が始まって、選挙カーが走り回るようになると
読み返したくなるのが、高村薫さんの「新リア王」
青森県選出の衆院議員福澤榮と、その一族の
四十年余にわたる三部作の第二部の物語。

国会を脱走して、故郷の青森に戻った榮は、晴子
という女性との間に生まれた庶子、彰之が暮らす
雪深い草庵を訪れる。

「新リア王」には、1980年代当時、国家の中枢にいた
政治家たちが、数多く実名で登場する。55年体制が
崩壊し、自民党が主流、反主流に分裂するなかでの
解散総選挙。その最中に、大平総理が急逝した。

四十年近く昔の話とはいえ、候補者やその家族
スタッフや支援者の行動や心理には、そう大きな
違いはない。描写は緻密でリアルで、政治家というもの
選挙というものは、おそらくこんなものなんだろうなと思う。

民主主義が、政治が、そして選挙が、イデオロギーの対立
ではなくなって長い時間が流れ、政治は、無数の利権の
やり取りを争う場になった。それでも、候補者たちは、変革
のイメージを喚起する言葉を重ね、有権者の前に、なんとか
バラ色の未来の設計図を描いてみせようとする。

平成の初めまでは70%前後だった投票率が、近年では
5割近くまで下落して、政治家たちの言葉が、もう私達には
届かなくなっていると思えるのは、私が悲観主義者だから?

世襲制の必然を信じて、息子の優を政界に送り出した榮は
青森県知事選挙で、無謀な選挙を戦ったあげく、その息子に
惨敗する。

本来なら、生臭くギラギラする政治の世界を、彰之が語る仏道の
言葉と対比させて、是もなく非もなく語り上げた、この壮大な物語
の帰結は諸行無常か。その美しさが病みつきになる。

高村薫さんの小説は、1回読んだだけでは、頭に入りません。
「新リア王」も、7、8回は読み返しています。読むこと自体が
忍耐を伴う修行みたいなものですが、最後のページにたどり
つくと、言うに言えない快感みたいなものがあります。単に
私が、読書に関しては、どMというだけなのかもしれませんが。

赤い羊は肉を喰う

著者の五條瑛さんは、防衛庁で情報・調査関連の仕事を
されていたという異色の経歴の作家さん。

東京の、下町の空気と人情が残る八丁堀。
内田偲は、社長の内田(同姓だが他人)を入れて
わずか3人という小さなリサーチ会社の計数屋。

偲は、ひったくりにあった老人を助けた笙という浪人生と
笙の幼なじみの理香子と知り合うが、理香子が、何者かに
殺されてしまう。

過激なプロモーションを展開する「kohaku!!」というアパレルの
ブランドと、それを率いる渡辺エスターという男。

渡辺は、かつてナチズムにも通ずる、大衆心理の操作という
テーマを追求したワタナベ・グループなる天才集団の一人。
彼は、人間の悪意を操作することで、大衆を煽動できる
ことを実証しようとし、その計画に気づいた偲たちは
それを阻止しようとする。

ささやかな日常を大切にし、隣人たちと助け合い、真っ当に
生きようとする人たち、偲や笙や、桐細工の店の女将や
若旦那などのキャラクターがすごく丁寧に描かれている。
彼らが、大衆をコントロールしようとする渡辺たちと対峙する
ことで、その危うさや異常さがより際立ってくる。

結果的に偲たちは、渡辺の企みを阻止することはできなかった。
日比谷バベルという大型ショッピングセンターのオープニング・
セレモニーで起きた、些細なアクシデントをきっかけに
詰めかけた聴衆が店に乱入して、商品を略奪し始め
飾られていたガラス器やスツールが倒壊して
降り注ぐガラスの雨が、人々の血で染まる。
水晶の夜の再現ともいえるこの光景は、凄惨だが美しい。

この小説は、殺人事件の犯人云々が主眼ではなく
とても丁寧に張り巡らされた伏線と
天才集団VS無名の市井の人々という魅力的なキャラクターたちが
混然一体となって、ドラマチックなラストを迎えるという
ミステリーとしては異色だが面白い話だった。

実は、高村薫さんも、五條瑛さんも、ある意味BLちゃあBLで
その方面の熱烈なファンの方もいます。私は、特にBL要素に
注目して読んでるわけではないのですが、高村さんにしろ、
五條さんにしろ、ものすごく壮大な仕掛けで、そういう人間模様
を描くことができるのが、何気にすごいなと思います。

この本は、私のお気に入りの一冊なので、HNはここから
お借りしました。

読書で離婚を考えた。

SF作家の円城塔さんとホラー作家の田辺青蛙さん。
それぞれ違うジャンルで執筆されているご夫婦が
相手に読んでほしい本を勧めあい、その本のレビューを書く
という、ネットで連載されていた企画の書籍化。

円城さんは北海道出身で
大学で物理学を専攻された理系の人。
一方田辺さんは、文系一筋というよりも
産業翻訳などのお仕事と執筆業を両立されている
キャリアウーマン系行動派の大阪人(?)

自分で本を選ぶと、自分の好みのジャンルのものばかり
選んでしまうので「何か面白い本ないかなあ」
というのもあって、この本を読んでみた。

さすがに、お二人ともかなりの読書家なので
結構マニアックな選択ではあるが
相手の苦手分野の本を選んでいるという自覚からか
マニアック過ぎるということはなかった。

幸田文とか又吉栄喜とか、池波正太郎とか
吉屋信子など「へぇ~」というのも混じっていた。
それでも私が読んだことがあるのは
「バトル・ロアイアル」だけだったけど。

この企画にはもう一つの目的があって
読書を通じて、夫婦の相互理解を進めようというもの。
相方が、本当はどんな人間なのか、何を考えているのか
分かっているようで、ほとんど分からないというのは
世の多くの夫婦も似たようなものなのではないか。

で、この試みをやったことで
円城さんご夫婦の相互理解が画期的に進んだかというと
結果は、本のタイトルが示す通り(笑)
お互いに、相手がますます分からなくなったというか
分かるような分からないような、というのは
この本を読んだ私の感想でもあります。

けれど、お互いに本を勧めあうことができる
その本について、まともな感想が返ってくる
このことだけ見ても、
大枠で言えば、世の大多数の夫婦よりは
ずっと近い距離にいて、実は読者は
ご夫婦のおのろけにつきあわされた感がないでもありません。

そして、紹介された40冊あまりの本の中で
これ読んでみたいと思ったのは「20世紀の幽霊たち」
なんと、作者のジョー・ヒルは
あのスティーブン・キングの息子さんらしい。
結局、自分の読書の幅を広げるという結果には
ならなかった気がします。


ホラー大全

珍しく図書館へ行って、目についたので借りてきた。
「ホラー大全」
クライヴ・バーカーと、スティーヴン・ジョーンズの共著

クライヴ・バーカーは「血の本」シリーズなどの小説家であり
「ヘル・レイザー」シリーズなどの映画の監督さんでもある。

この本は、ホラーの歴史や分析をする解説書ではない。
「A:アメリカン・サイコのA」「C:カオスのC」
「N:ナイトメア(悪夢)のN」というように、ホラーを構成している
魅力的な要素をAからZに分類して、作者の私見を述べた
とてもユニークなホラー論だった。

映画だけではなく、対象はポーやラヴクラフトの文学、演劇
絵画と幅広いが、やはり半分以上が映画のお話。
ホラー映画の、ターニングポイントになった作品というのは
「サイコ」「エクソシスト」そしてトビー・フーバー監督の
「悪魔のいけにえ」という話は、心から納得。

欧米では、宗教的な背景もあって、悪魔とか、悪霊とか
吸血鬼のように、邪悪で強大な力を持つ存在に襲われ
それと闘うという話が、ホラーの大きな流れとしてあった。

しかし「1957年の冬、ブレインフィールドという、アメリカの
どこにでもあるような小さな農村で起きた、エド・ゲイン事件は
アメリカ人の恐怖に対する概念を根底から変えた」のだ。

このエド・ゲイン事件をもとに、ロバート・ブロックが「サイコ」を
書き、それを原作とする映画「サイコ」が作られた。
ここから、たくさんのホラー映画が派生して、作られていく。

前書きには「ほとんどのホラーは、人間という存在における混沌
(カオス)の噴出を扱っている」とある。
この世界がどれほど、平和で、安定して、満ち足りているもので
人間は、善意にあふれた美しい存在のはずだだと力説されても
私自身は、そんな幸せな現実や人生の中で生きてはいないから
むしろ、醜悪で、ぐちゃぐちゃぞわぞわで、おぞましくて
怖いものを見ているほうが、なぜか安らいだ気持ちになれるのです。
つまり私の頭の中は、未だにカオスそのものということなのでしょう。
プロフィール

田中偲

Author:田中偲
50年以上映画を見続けてきた、でもただのミーハーな映画好きの、備忘録的感想文

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