異邦人

今年の福岡は暑かった。
数日前の新聞記事によれば
8月の気温は、34度台が2、3日あるだけで
あとは全て35度超え。
夏も、太陽も大嫌いな私が、思い出したのがこの本。

「異邦人」 (1942) アルベール・カミュ作

「なぜ人を殺したのか」と問われて、ムルソーは答える
「太陽のせいだ」と。

最初に読んだのは高校生の時だから、40年以上昔だ。
不条理を描いた文学といわれ、そろそろ古典の仲間入りを
しそうな小説だが、文体も内容もさほど難解ではない。

第一部では「きょう、ママンが死んだ」という冒頭から
レエモンという友人のトラブルに巻き込まれたムルソーが
浜辺で出会ったアラビア人に向かって、5発の銃弾を
打ち込むまでの彼の行動が、淡々と語られる。

「なぜ人を殺したのか」と問われて、ムルソーは「太陽のせいだ」
という以上の、合理的な答えを見いだせない。
その答えを導くのは彼自身ではなく、検事や判事や弁護士
あるいは司祭や、彼が名前も知らない大勢の人々だった。

母親を養老院に入れたことに始まって、母親の葬儀で泣かなかった
こと、葬儀の時に煙草を吸ったりミルクコーヒーを飲んだこと
葬儀の翌日に海水浴に行き、恋人のマリイと喜劇映画を観たり
セックスしたりしたこと。

ひとつひとつは、誰でもやっているようなことで、もし親が死んだ直後
でなければ、特に問題にもならないようなムルソーの行動の
すべてが、殺人という行為と結びついて特別な意味を持ってしまう。
この小説では、もうひとつ、大きなテーマとして「神」の問題が
語られるのだが、そこは私の手には余るので言及しない。

ネットで、とてもたくさんの情報が発信されるようになって
何か事件が起きると、関係者についての情報があふれだす。
けれど、実はそれらはとても断片的なもので、それをうのみにして
「○○はこういう人間だ」と結論づけることはできないのではないか。
「異邦人」を読み返しながら、ふとそんな風に思う。

死刑が確定した後の、司祭とのやり取りの中で、ムルソーの内部の
何かが裂け、彼は「私はかつて正しかったし、今もなお正しい」と
叫ぶのだ。
「私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。
私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが
別なことはした」
道徳がどうとか、法律がどうとか、信仰がどうとかいう次元の話ではなく
人間として、根源的に、自分は正しいと叫ぶ、ムルソーの主張。
それを是とするか、非とするかは、読み手に委ねられる。

自分自身の、いわゆる自我と言われるものと
外側の世界の、中には明確な根拠のない価値観を強要して
くる空気との間に、居心地の悪さやズレを感じるような人は
読んでみてもいいのではないかと。
でも「だったら人殺してもいいんじゃね」と考えるような人は
止めておいたほうが無難です。

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トーチソング・トリロジー

ネットで新作の映画情報を見ていると
ついつい、あれも観たい、これも観たいとなるのだけど。
いざ感想を書くとなると「面白くなかった」と書いても
それはただの個人の好き嫌いだから
たいして意味がないような気がするのだ。

なので、どうせ紹介するなら「これ観てほしいなあ」と思う
100点満点でいうと70点以上くらいの映画を
ということで80点越えの「トーチソング・トリロジー」を。

ハーヴェイ・ファイアスタイン原作で
自ら脚本を書いて主演もした舞台劇を1988年映画化。

ニューヨークのゲイバーで働くアーノルド(ハーヴェイ・ファイ
アスタイン)は、恋人のエドと別れたあと、純朴な青年
アランと出会う。二人は孤児を引き取り、里親になろうと
するが、アランはゲイを憎む男に殺されてしまう。失意の中
養子のディヴィッドと暮らし始めたアーノルドの前に、結婚
生活に失敗したエドが戻ってくる。

この映画は、一緒に生きていきたいと心から願う気持ちは
男と女であろうと、同性であろうと、何も変わるところはない
ということを、とても真摯に描いている。

アーノルドの母(アン・バンクロフト)は、息子の生き方を
どうしても認めることができない。そんな母親に対して
アーノルドは言う。
「僕は人に頼らず、自分のことは自分でできる。だから
人に愛と敬意以外は求めない。だから、ぼくを見下げるなら
出ていって」

親と子の価値観の違いとか、マイノリティである意味とか
いう以上にアーノルドの生き方には
人間としての本質的な矜持、誇りが感じられる。
ゲイという、一般的にはマイノリティとされる人間を描いて
ほとんど屈折した、薄暗い感情を感じさせない稀有な映画だった。

最近の、特に日本映画に登場する
「普通の」「当たり前の」生き方、人生から
落ちこぼれてしまうと、まずは「自分はダメな人間だ」という
自己否定や挫折感がベースになってしまう人間像に
何かもやもやしたものを感じることの多い今日この頃
ある意味対極とも言えるこの映画を思い出しました。

シン・ゴジラ

何かと話題の「シン・ゴジラ」を観てきた。
最近映画を選ぶ基準が
内容じゃなく「大きい画面で観るなら」になってるのは
多分「ローン・レンジャー」を映画館で観れなくて
ものすごく悲しかったことが
ずぅーっとトラウマになってるからだ。

で、感想はというと「ゴジラ可哀そう!」だった。
そもそも予告映像の時点で
戦う前からなんだか満身創痍みたいに見えて
手が極端に小さく、しっぽが異常に長い
あのいびつなビジュアルに違和感があったのだけれど。

最初にゴジラが登場した瞬間は
「???」という感じで、眼が点になったが
再登場したゴジラは、まぎれもなく
予告編に出てきたあのゴジラだった。

ゴジラという怪獣に初めて出会ったのは
1962年の「キングコング対ゴジラ」
小学校二年生の時だ。
つまり昭和ゴジラの世代だから
ゴジラが核実験の産物という前提は
知識としてはあるが、だから絶対的な脅威で
抹殺しなければならない絶対悪だという認識がない。

日本のゴジラは、あの体形も、緩慢な動きも
どこかユーモラスだから
今回も、なんか出てきちゃいけないとこに出てきて
のしのし歩いていたら
いきなり軍用機やら戦車が大挙して集結し、一斉攻撃された
というふうに見えてしまう。

火炎と煙に包まれたゴジラを見て
私は「もう、なんてことするとよ」と怒り心頭。
「負けるな。暴れろ。暴れろ」と応援しましたが
エネルギー切れでいきなりフリーズ。
(ウルトラマンか 怒)

このあたりでやっと
「そうか。今回のゴジラは、存在自体が歩く原子炉みたいな
設定なんだな」ということが分かる。
ただの破壊王だけじゃなく、放射能の脅威が上乗せされてる。
だから通常の兵器ではゴジラには勝てないので
最後の手段は核兵器。
それはつまり核には核を。核戦争かい!
この核の扱い方のあまりの軽さには
ちょっと真面目に腹が立った。

けれど、核による日本壊滅を回避するべく
気鋭の若手政治家や、はぐれ者の研究者たちが
死に物狂いで、有効な対処法を考案。
それが功を奏して危機は回避されたけど
残されたのは、モニュメント化した巨大なゴジラ。
あ~、もう全然暴れ足りないよぉ。

もちろん「シン・ゴジラ」をめぐっては
例えば3.11の東日本大震災や原発事故と絡めたかった
作り手の側の意図も
そこに言及した真面目な考察がたくさんあることも
はたまた総監督の庵野さんや「エヴァ」と関係づける視点が
あることも分かっています。

けれど未だ記憶に新しい、あの震災や原発事故を
こうしたエンターテイメントな、しかも怪獣映画に
落とし込むのはやはり難しい。だから、観る人に
これこそがリアルと錯覚してもらうための、あの
ハイスピードだったのだろうと思います。

けれども昭和ゴジラに愛着を持つ者としては
「シン・ゴジラ」は、ある意味、核や放射能の脅威に対する
人間の屈折した怨念を、過度に背負わされたゴジラの叫びが
理不尽に殺される生き物の断末魔の悲鳴にしか聞こえず
ただただ哀れで悲しかったです。

むしろこの映画は、ゴジラではなく
かつての「エイリアン」のように、
放射能汚染が生んだ、人類には未知の
凶悪で最強の新種の怪獣を考案してくれたほうが
私は違った楽しみ方ができたかもしれないと思います。

プロフィール

田中偲

Author:田中偲
50年以上映画を見続けてきた、でもただのミーハーな映画好きの、備忘録的感想文

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