アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

前回「イミテーション・ゲーム」のことを書いていて
「私は人間か、マシンか」のくだりで思い出したのが
「ブレードランナー」の原作のこの本だった。

最終世界大戦の死の灰によって汚染されつくした地球。
大勢の人間が火星に移住し、異星の環境で
下僕として働く、限りなく人間に近いアンドロイドが製造
された。しかし、火星で酷使されることに反発した
数体のアンドロイドが、地球へ脱走してくる。
賞金稼ぎのリックは、彼らを処分して賞金を得ている。

人間の社会に紛れ込んでいるアンドロイドたち。
誰が人間で、誰が機械かを見分けるのが、フォークト・
カンプフ検査法と呼ばれるテストだった。

放射能で、多くの生物が絶滅し、人間たちは
電気仕掛けの犬や猫、馬やヤギを飼っている。
そして人間たちの中にも、火星への移住を許可
されない特殊者、ピンボケと呼ばれる階層があり
それがイジドアだ。
そこにさらに、共感ボックスとかマーサー教といった
いわゆるスピリチュアルな精神世界的要素までが
加わり、この本は、科学技術一辺倒のSFとは
かなり趣が違う。(でも実はSF小説や映画が、科学技術
オンリーでないことが、最近やっと分かってきました)

人間とは何か、生命とは何か。
生きている、本物の動物を飼うことが
最高の贅沢であり、ステータスにもなっているような
あらゆるものが絶滅寸前の地球で、この本は問う。
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」と。

この本との出会いは「ブレードランナー」を観たから
という、いかにもミーハーなものだったが
SFがそれほど好きでなかった私が
その後も何回も読み返したのは
筋の面白さだけで読ませる本ではなく
ある意味人類の未来を予見するような
広がりと深さを感じさせてくれたからなのだと思う。

映画の「ブレードランナー」は
リックとアンドロイドの対決を軸に描かれていて
それ以外の要素は大幅にカットされていましたが
小説と映画は、それぞれ肌合いの全く違う面白さがあり
どちらも、素晴らしくよくできていると思えました。
原作と映画の関係性を考える上で
とても参考になる作品なのではないかと思えます。

映画も本もなのですが、こういうコアなファンがおられて
優れた感想もたくさんある作品のことを書くのは
なんかおこがましい気がして、難しいです:(´◦ω◦`):


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イミテーション・ゲーム

タイトルとか暗号というキーワードから
諜報戦とかスパイ映画みたいなのかなと早とちりして
観るのを保留していたが、ケーブルで放送されたので観た。

ケンブリッジ教授の、アラン・チューリング邸で盗難が発生。
ところが、盗られたものはなく、不審に思ったノック刑事は
密かにチューリング教授の経歴を捜査する。ところが
教授は同性愛者で、泥棒は教授が関わりを持った男娼
だと判明。しかし疑惑をぬぐいされないノックは、逮捕された
教授を尋問し、驚愕の事実を知ることになる。

幾つかのプロットがある。
第二次大戦中、ドイツ軍が用いたエニグマという暗号。
天才的な数学者であるチューリングは、数名の仲間と
人間には解読不可能と思われた暗号を、専用のマシン
を開発して解読に成功し、戦争の終結に大きな功績を
果たす。天才数学者の優れた業績と、不遇な生涯。

でも私のツボは、そこではなく、他のところだった。
チューリングには別の側面がある。人間とうまくコミュニ
ケーションを取ることができない、いわゆるEQ能力の欠如。
学生時代イジメられていた彼を守り、ただ一人理解してくれた
クリストファー。しかしクリストファーは死んでしまう。
チューリングは、自分が考案したマシンを「クリストファー」と名
付け、生涯そのマシンと暮らし続けた。

彼が同性愛者になったことにも、旧友のクリストファーの存在が
影響したことは否めない。しかしチューリングは問う。
「人とマシンに違いはあるのか。マシンと同じように考える
人間は、果たして人なのか、マシンなのか」
チューリングは、人間と同じように思考することは苦手だが
マシンと同じ思考ができるから、エニグマを解読した。
マシンと同じ思考をする人間が、マシンを愛することは
奇異なことでもなんでもない。その境界はとてもあいまいだ。

彼の「クリストファー」というマシンに対する愛着は、人間に対す
るそれと少しも変わらない。マシンと別れないために、刑務所
ではなく、ホルモン剤を投与する治療を選ぶチューリング。
「私を独りにさせるな。独りはいやだ」という叫びが、観る者の
胸に突き刺さる。
こんな生き様もある、そしてこんな愛もあるという物語。

もう一つ、この映画は見せ方がすごくうまい。実話がもとに
なっているが、出来事を時系列に並べる単調さを排除している。
刑事とチューリングの会話を上手にはさむことで、ミステリー
的な要素が加わり、その会話の中に、映画のテーマもさりげ
なく織り込まれている。

いや~「ファイトクラブ」の時もそうでしたけど
タイトルとか予告編で、先入観を持って、食わず嫌いを
するのは、本当に失敗のもとですね。
「イミテーション・ゲーム」オールマイベストに入れても
いいくらい、よい映画でした。


怒り

「怒り」を観た。
映画は、ほぼ原作の通りで
原作のダイジェスト版という感じだった。

少し前に「怒り」の小説の感想を書いたので
内容は省略するが、映画化されたものを観ると
幾分物足りなさがあった。

「ソロモンの偽証」もそうだったが
長編小説を映画化する時は
当然のことながら、省略される部分が多い。
映画は、小説のように地の文で説明できないから
セリフと情景だけで、登場人物の性格から、感情から
起きている出来事まで、すべてを表現しなければ
ならない。

「悪人」は主要な登場人物が7、8人だったので
映画版でも、ひとりひとりの人物像を
かなりの範囲表現できていたと思う。
しかし、今回の「怒り」は、原作では20人近い人間が
それぞれ重要な関わりを持っていたのだが
そこが大幅に省略された。

その結果、限られた人物たちによる
ストーリーを説明できるセリフと
観客の目を引く、衝撃的な事件というか
映像の部分がメインという感じになってしまって
観終わった人の頭に残るのは、あらすじと
冒頭の、凄惨な殺人事件の現場だったり
優馬と直人の性行為の描写だったり、泉がレイプされる
場面だったり、という結果になったのではないだろうか。

そもそもが、殺人犯山神が書いた「怒」という血文字の
意味を解き明かすことが目的の物語ではない。
人間とは、こんなにももろく、危ういものだという
問いかけがなされているような話なのだと思う。

さすがに、ありきたりな結論を導き出すという終わり方は
しなかったが、最後の、辰哉が山神を刺すまでの経緯が
大きく改変され、泉と辰哉のその後は省略された。
愛子と父親、優馬と直人、あるいは泉の
細やかな感情の動きが分かる部分がカットされ
泣き声と叫び声が耳に残る結果になった。

監督さんは、これはタイトルの通り「怒り」を表現した
作品だと解釈され、一流の俳優陣が揃ったこともあって
その俳優陣の気合の入った演技と
インパクトのある映像に挑まれたのだと思う。
もちろんそれもありなのだが
この作品の底辺に流れる、山神をも含めた、個々の人物の
生きることの辛さとか悲しさ、ある種のどうしようもなさ
といったものを、もうひとつリアルに感じ取ることが
できなかったのは、少し残念ではあった。

それにしても、前から思ってたんですが
吉田修一という作家さんは、女性には厳しいです。
「怒り」だけじゃなく、他の作品でも女性の描き方は容赦がない。
映像化された「怒り」を観ても、やはりそう感じました。

プロフィール

田中偲

Author:田中偲
50年以上映画を見続けてきた、でもただのミーハーな映画好きの、備忘録的感想文

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